吃音教室だよりタイトル

挨拶おじさん

会長 伊藤 照良

今年の吃音ショートコースは「アドラー心理学入門」というタイトルで岸見一郎先生の講義があった。朝9時から夜9時までの、ハードなスケジュールだった。初めに簡単なアドラー心理学の概要の説明があり、それから参加者の質問をはさんで話が進んだ。会報に報告としてまとめにくい話の展開でした。毎年吃音ショートコースでは、沢山のメモを書きそれをまとめて報告していたが、今年は質問する参加者と岸見さんのやりとりや表情を見たりしていて、文としてのメモは殆ど書けなかった。
だが講義を自分の問題として聞いていくうちに、私のモヤモヤが整理されていった。何かを掴んだ感触はあった。

ふと、思い出して

ショートコースから戻ってきた翌日。朝の早い出勤の時に「会報にどのような報告を書こうか」と歩きながら考えていた。今日は粗ゴミを捨てる日だ。粗ゴミの袋を持った背広姿のサラリーマンが向こうから歩いていた。ふと、アドラー心理学の講義の中で聞いた話を思い出した。外国のある人が家の前に立ち、行きかう人に手を振っている話だ。手をふるおじさんだ。当初は周りの人たちは怪訝そうに眺めていたが、だんだん手を振る彼に、手を振り返す人が増えていったという。
 ゴミ置き場にゴミを捨ててこちらに向って歩いてきたその人と目があった。知らない人だけど、手を振るおじさんのように挨拶してみようかと思った。そして「おはようございます」と私が挨拶した。彼ははっきり私に「おはようございます」と挨拶を返してくれた。私が行っているパートの職場は歩いて5分位で、駅とは反対方向にある。早朝だから通勤の人は少ない。その日は8人の人とすれちがった。1人は耳にイヤホンをして携帯を見ていたから、挨拶をしなかった。残りの7人に挨拶をした。4人の人は声を出して挨拶を返してくれ、残りの3人も目礼してくれた。

挨拶に困っていた時

私は以前、挨拶に困っていた時期があった。「おはよう」や「さようなら」のことばがなかなか出ないからだ。職場の人から「おはよう」と言われて、相手が数歩遠ざかってやっと「おはよう」が言えるという具合だった。 「さようなら」は「さ」が出そうになくて、言うのを諦めた。その代わりに「お先に失礼します」と言っていた。何年かすると、その時の職場の人たちが「お先に失礼します」と言うようになっていた。

二日目の挨拶

ショートコースから帰ってからの二日目。今日も「おはようございます」を実行しようと思った。気負ったせいか、昨日よりことばが出にくく感じたが、実行した。昨日より時間が早い為だろうが、3人しか出会わなかった。3人とも挨拶を返してくれた。 職場に着いて気付いたことがあった。私が挨拶する前に「おはようがざいます」と私に対して挨拶する人が多かった事だ。「おはよう」だけでも50人以上の人に言われていた。「ありがとう」と言われることも多かった。 アドラー心理学を聞く前も同じように挨拶されていたのだろうが、意識していなかった。これだけ多く挨拶を受けていた。ただ気付いていなかっただけだった。  アドラー心理学をちょっとだけ学んだだけで、周りの人に囲まれていることが分かった。世界は変わっていないのに、自分の行動や見方が変わるだけで、何となく幸せを感じた。

三日目は挨拶する気がなかった

どうやら風邪をひいたようで、朝起きるのが辛い。喉もいたいし咳がでる。何より動くのがおっくうだ。しかし、重たい体を無理に動かして、出勤する。 とても見知らぬ人に挨拶する気分にはなれない。その時に岸見先生のブログのコメントに、私と同じ様なことを実行している人がいた。その男性はショートコースが終わってから、家族に「ありがとう」を突然言い始めて、オヤジはおかしくなったのではと、思われているのではと思っているBATAさんに「肩の力を抜いて」と、書いてあったのを思い出したら挨拶が楽になった。 5人とすれ違い3人に挨拶した。3人とも目礼があった。挨拶しなかった二人は耳にイヤホンをつけていたから無駄だと思った。しかし職場や通勤時の挨拶への返事のほとんどは儀礼的であり、声は出しているがこちらを向いてはいないのが分かった。コンビニで聞く「いらっしゃいませ・こんにちは」と同じく機械的な声だった。 人として挨拶してくれたのは、初日に、「お、おはよう」とちょっとつまった時、「あれ!?」という表情をされた人に「なかなか『お』がでないんですよ」と私が気軽に言った方からの挨拶だった。親しみの声が私に届いた。

四日目は

三日坊主は嫌だからと今朝は出会った8人の人のうちで5人に挨拶した。昨日感じた儀礼的な挨拶に嫌気がさしてきていたが、今日は視線を合わせて会釈してもらえた。挨拶を始めた日から何かが変わってきている感じがする。職場でも声をかけてもらう事が多くなり、それに笑顔が加わっていた。まだ、ほとんどの人は条件反射的な挨拶が多いのだが、私を人として見ていると言う相手との距離が近く感じられる挨拶をしてもらった。

五日目になって、始めて聞いた声

明日がこの会報の発行日。ショートコースから帰ってきて五日目になる。仕事の帰りに団地の一階のおじさんに会った。ここに住んでから23年過ぎるが、その方は挨拶しても、目礼くらいがたまに帰ってくるような、愛想の悪い方だ。 私は自然に「こんにちは」と声をかけていた。すると「あ!こんにちは」と返事があった。このおじさんの声を聞いたのは引っ越してきてから多分始めてだと思った。いつも車を磨いているだけで、人と会話しない方だと思っていたが、私の挨拶が届いたのだろうか。 確かにアドラー心理学を学んで、ちょっと思い立ってしてきた挨拶から、おじさんが返事をしてしまうような挨拶ができたようだ。私が変わると、周りも変わってきたようだ。挨拶してから会話をしたり、笑顔が帰ってくる人が増えた。これから挨拶を続けるかどうかは分からないが、ふと、やってみる事で思わぬことが発見できた。

吃音ショートコース報告

10月の9・10・11日の連休に第15回吃音ショートコースが琵琶湖の湖西・近江舞子で開かれた。今年のセミナーの主題は「アドラー心理学入門」である。耳慣れないアドラーということばに引っかかったが、前もって講師の著書を予約購入して読み、吃音ショートコースに臨んだ。  ショートコースが終わってからの感想は、本では得られない講師のメッセージがスット体に染み込んだ。だからといって集中講義の言葉の嵐が整理されて、理解し報告するまでには至らない。 だから「アドラー心理学入門」である。やっと門の前に来て、講師の岸見さん(あえて先生とは、書かない。岸見先生との距離が近づいたからだ。親しみを込めて岸見さんと書いていく)に門を開けてもらったと感じた。  会報を書かない訳にはいかないから、間違った解釈や分かりにくい表現の報告になるかと思いますが、ご容赦ください。

聞き取りにくい音響

定年して数ヶ月は仕事がなくて遊んでいたが、何をするにもお金がいる。せめて自分の小遣いを稼ごうとパートを始めたので、その仕事がすんでから出たので、会場に着いたのは講義が始まってから30分も過ぎていた。 音響の調子が悪く音が割れていたし、岸見さんは心筋梗塞にかかり、3年ぶりの講義だというためなのか、岸見さんの話しが聞き取りにくい。言われていることばの7割くらいしか聞こえなかった。これは難儀すると思った。前もって著書を読んでいたので、ことばの端々から内容を推測するという作業から始まったので、最初のセクションは疲れた。

去年のことば

 休憩時間に昨年来られたという方に話しかけられた。私は人の名前や顔を覚えるのが苦手である。彼からの言葉に驚いた。「昨年、テルさんが言ったショートコースはお正月みたいだというのは、本当ですね」と言われた。 言った当事者が振り返りの時間にそんなことを言ったことすら覚えていないのに、彼は1年前の私の言葉を覚えていてくれた。私の短い感想のことばを覚えていてくれたことに本当に感謝した。 お正月といつも言っていたのは北九州の石井さんだ。昨年は事情で吃音ショートコースに参加できなかった石井さんがいつも言っている言葉を思い出し、その時にお正月ということばを使った。 今年はその石井さんに会えた。「テルさん、定年だね。すっきりしてかっこよくなったよ」とニコニコ笑顔で、早速プラスのことばをくれた。自分では最近ちょっと胃が痛むような事があり、痩せたものだから、日常では久しぶりにあった方から「痩せたね、病気でもあるの?」と心配されていたので、石井さんのことばが以外に感じたが、このショートコースに参加するだけで、心が解放されたのかと思った。

吃音ショートコースのパンフレット「アドラー心理学入門」 アドラー心理学では、10才前後に、自分はこう生きていくというライフスタイルを形成するといいます。吃音をマイナスのものと強く意識し、「私は無力だ。みんなは敵だ」とのライフスタイルをもつと、問題に対処できなくなります。アドラー心理学は、「困難があっても私は対処できる」とのライフスタイルをもつには、「共同感覚」の育成が不可欠で、そのために、自己肯定、他者信頼、他者貢献を実感する必要があると提案します。 〈自己肯定〉「吃音は悪い、劣った、恥ずかしいこと」「吃音を治さなければならない」と考えると現実に直面せず、「吃音さえ治れば何でもできる」との非現実な展望をもつ一方で、「何もできない」との無力感から自分を過少評価してしまいます。「私は私のままでいい」の自己肯定がまず必要です。 〈他者信頼〉自分の周りの人たちは吃音を理解しない、自分にとって敵だと考えると、その敵の中に出ていけません。吃音をからかう人もいるが、基本的に周りの人たちは、私にとって大切な仲間だという他者信頼の感覚は、人間関係の中での問題である吃音には、重要な意味をもちます。 〈他者貢献〉吃るのが嫌で、役割から逃げると、役に立たない存在になってしまいます。それが、人間関係を狭め、劣等感を強めることにつながります。職場やクラス、家庭で何かの役割を持ち、他者の役に立っていると感じたとき、他者貢献が自己肯定、自己肯定が他者信頼へと循環していくのです。 アドラー心理学は、この他私たちが常に考えている「劣等感」について、独自の見解をもっています。「劣等性、劣等感、劣等コンプレックス」の問題です。 カウンセリング  私は症状の除去でなくライフスタイルを変えるカウンセリングをします。 この問題が解決したら終わりにしましょうと、カウンセリングの目標を立てます。相談来られた方と、お友達関係で一緒に旅に出ることです。相談に来られた方と地図の確認をして、ここまで来たらさようならしますと話あいます。 ある双子の中学生 「赤面症を治してください」と中学1年の双子の妹がカウンセリングに来られました。赤面症は治らないから目標になりません。「治せません」と断るのは難しいです。仮に赤面症の症状が消えたとしても、ライフスタイルが変わらなければ、別の症状が起こります。 彼女の人間を測る尺度は、性格と学業でした。友達が多いのは性格が明るい。私は友達が少ないから、性格が暗い。姉はかしこいが私は勉強ができないと思いこんでいます。そして姉は明るくて勉強ができるし美人だと思い込んでいます。 劣等感は、傍の人はそう思っていないのに、本人が思い込むことです。自分は美人でないと思っているが、みんなは美人だと思っている。 『二人が私学の中学を受験しました。どうなったと思いますか?』 このように岸見さんは、質問してから参加者の考えを聞いて話を進めます。 中学は妹の方が私学に入学できました。私学に入学すると、周りも勉強ができるから、相対的に学校の評価が下がった。私学では妹の成績は小学生の時に5だったのが、中学では4になった。姉は公立の中学で5になった。妹は劣等感を持った。姉に負けまいと勉強で頑張ってきたが、勉強すら姉に勝てないと思い込んだ。 そこで赤面症という症状がでました。症状を作ったともいえます。赤面症がなぜ妹に必要になったのでしょうか。姉に比べて男性にもてない。 「もし、赤面症がなくなったらしたいことはありますか?」と妹に尋ねました。 「赤面症が治ったら男と付き合いたい」と言いました。彼女は人生の課題を男性と付き合うことにしたのです。姉と比べてもてないから、赤面症だから男にもてない。これが赤面症を選んだ理由です。 岸見「あなたはこの世界は赤面症があるが故に、もし赤面症さえなくなれば、あなたの世界はばら色になると思っていますか?」 妹「そうです」 岸見「赤面症を治す話はやめようよ。」 と言って、ここからは症状の話はしない。症状を必要としなくなるようにライフスタイルを変えていくことを考えて行く。 ライフスタイルを変える 私が選ぶのがライフスタイルです。私そのものは変えられないが、私はその気になればメガネを変えることができる。メガネを変えるようにライフスタイルを選べます。 今の世界は赤面症、モノクロからフルカラーの世界になりませんか?悪い事は言わないから、赤面症をなおそうと思わないことです。私は、はっきり売れないと言います。症状を治すということは、ここの商品棚にはない。 我々は現実の中で生きている。「あっ!そうなんだ」と思ったら自分が変わるしかない。    「今ここで」  アリストテレスは二つの動きがあると言っています。 1、キーネシス(出発点があって終点がある。始まりがあって終わりがある動き)目的地に早く行く。いかに効率的に動くか。生まれた年があり、今、なくなった年という具合です。 観光地まで寝て過ごすのは、損な生き方。 2、エネルギー ダンスはキーネシスのような動きでなくて螺旋的動きです。ダンスは途中の動きに意味がある。ダンスはその場の動きを楽しむ。生きることは、どこにも到着しなくていい。いつ何時死んでも後悔しない生き方をして欲しい。 「今ここで」がキー・ワードです。多くの心理学にこのキー・ワードが必ず出てきます。今ひとつ分からなかったのですが、岸見さんはデートの場面を仮定して話されました。 「彼女と一緒に話をしているとしましょう。会話に彼女の前の彼氏の話なんか聞きたくないでしょう。元彼がどうだったかは、今一緒にいるあなたにとってはどうでもいいことです。今の二人の事を話したいとおもいませんか?」 過去の事を理由にすることは原因論です。今の事態を見つめることをするだけでいいです。トラウマという言葉が頻繁に使われていますが、過去を切り離さないと、いつまでも過去にとらわれてしまいます。あなたがしたいことやあなたの課題を明らかにすることです。 「今ここで」がやっと分かった気がしました。明日の事を言っても明日生きているとは、限らない。今幸せでなければ、一寸先が見えない現代社会の中で、未来を見ていて今を生きていないと、損する。 「どもりさえなおれば」と思い続けて悩んでいたころは本当に損な時間を費やしたものだ。今ここにたくさんの幸福を見つけ出せる。生きているだけで幸せと思える。 色々な見方 黙っている人がカッコいいという人がいる。必要なことばを的確に言えばいいのです。本当に重要なことばを相手に届けるだけでいい。訥々と言うセールスマンの方がよく商品が売れる。「雄弁は金ではない」という見方もある。  知的論理は大抵間違っている。「あなたはカッコいいよ」と言っても「どもりだからカッコよくない」と返事されます。自分の見方が唯一の意味づけでない。人生を楽しんでいい。深刻にならなくていい。ユーモァをもって、これからは人に貢献していこうと思う。肩の力を抜く事で、人の優しさや、愛情が見えてくる。吃ることは試金石です。あなたのどもりを認めてくれる人と付き合ったらいい。 共同体感覚 (自分にとって何が為になるか)人とつながって人間になる。貢献は生きる喜びです。ギブ・アンド・テイクではありません。対人関係はギブしかない。 アドラー心理学はなかなか自分のものにしにくい。日々試されるようなことがある。 シンプルだからといっても、簡単でない。シンプルだから、後は、やるかやらないかです。アドラー心理学はきつい、厳しいのです。 コップの中に入っている水を空にしないと新しい水は入りません。水を捨てる援助をします。どもる事実を認めて、一歩生活に、どう生きるかに集中していこう。 「人生の課題のハードルを高くされている。ハードルを低くするお手伝いならできます」今、あなたが求めている改善の余地、問題を取り扱つかえる。 人生には今しかない。あなたはいつまで生きるか。人生は先延ばしにしてはいけない。明日までまっちゃいけない。  好きなことをする為に吃るからと言ってしないことはもったいない。吃りなさい。すきなだけ吃りなさい。あなたの課題を回避する理由としてどもりをもってこないでほしい。不安神経症の人は、外に出られない理由として不安神経症を選びました。不安神経症が治ったら外に出なければいけない。 感情を自分が選んでいる 「ついカッとした」というのはウソですね。怒りという感情をあなたが選んでいるのです。子どもに怒っていた時、電話が鳴りました。受話器を取って「アラー久しぶり・・・」と平静になっています。電話を切ってから、目の前の子どもの顔を見てまたカッと怒る。  拒食症も多いです。過食症も治すことはできない。人によっても違う。呼吸器が弱い人は喘息になる。臓器が言語を持っている。症状になって出てくる。拒食症は自分の体を痛めつけている。拒食症だって人間関係の問題です。過食症は親子関係の問題が多い。拒食しなくて、いかに自己主張するかを考えます。その拒食症の女性は髪の毛を真っ赤に染めた。親と上手にコミュニケーションする方法を教えた。 参加者の感想 ・どもりを持って、幸せです。 ・明日からの課題を決心している。 ・昔の嫌な経験を肯定できるようになった。 ・どもりという扉を開いて中に入ると広い世界だった。 ・ 岸見さんは、自己開示をして、自分を語ってくださった。ステキな方 (桑田さんからメールが来ました。) 「自分もアドラーの発見いっぱいあって驚きました。接触が好きでない自閉の子が、私がただ立っているだけで何度もタッチしに来てくれました。子どもも職員からも、私がただ居るだけでたくさん挨拶をもらいました。本当に不思議です!!さらに真摯に、そしてユーモアをもって、今を生きようと思います。」 *人間関係をこじらせない予防の心理学 *良い友人関係の条件 *叱らない、ほめない育児と教育 等、今回だけでは、書ききれていないものが沢山残りました。次号に続きます。 (人生があなたに要求することをしないためにどもりを口実に使ってはいけない) 「人前で話すことができず、気後れしてしまう人がある。聴衆は敵である、と考えるからである。このような人は、一見したところ敵対的で自分よりも優れている聴衆を前にすると劣等感を持つ。しかし、自分と聴衆を信頼できる時にだけ、うまく話すことができ、気後れしないのである」(『個人心理学講義』)気後れ=何かをしようとする時に自信を失って怯むこと。

交流分析

~自分を知り、これからの生き方を変えるために~
毎年、神戸吃音教室では交流分析の講座を開いている。「交流」というと、つい人との関係やどうコミュニケーションをうまくとるかといった方法だと考える、そこでこれまでは主に、自分と他人のやりとり分析や自分がどのような、感情や行動をしがちかということに気づくエゴグラム行ってきた。私が悩んできたのは、自分自身の感情に対するものであった。自分の感情は自然に起きている。この湧き出た感情が自分の生きることを辛くしていた。10月の吃音教室では、自分との交流に気づき、変えていく事ができる「人生脚本」の部分を中心に行った。とかく「ワンパターン人間」になりがちな吃音を持つ私たちに必要な講座だと思っている。

どもりたくない吃音者

誰よりも、「どもりたくない」のが私だった。人前で「決して吃るまい」と思いながらも、重要な場面・相手の前では、この思いとは全く逆に吃ることがひどくなり、ことばが出てこなくなる。私の幼児期・学童期・青春時代は、どもりは「話し方だけの問題」だからゆっくりと話せば「どもりは治る」と言われ吃音矯正法を学び、毎日何時間も一人でどもりを治す練習を何年も続けた。一人だと誰よりも上手く本読みはできる。だが、学校で当てられると練習した事は全く役に立たずに、声すら出せない。
どもりを治せないままいる自分を卑下し、どもりのままの私は人間失格とさえ思い込んだ。なぜそこまで自分いじめをしてきたのだろうか?交流分析の中で「人生脚本」から、これまでの自分の感じてきたことや、生きてきた事を見直すことができる。

人生脚本

「人生脚本」とは親や家族から、「あなたはこう生きなさい」と与えられたシナリオである。それぞれの家庭によって違うから家風とも言えるし、又子どもへの「しつけ」とも言える。「三つ子の魂、百まで」と言われるように、子どもの時に培った思いは大人まで持ち続ける。その思いがその人にとって生きていく上で辛いものでなければ問題はない。「幼児決断」と言うが、親から与えられたメッセージを、幼児期に「自分はこう生きていこう」と自分で決断をする。

ドライバー

人をマイナスの行動に駆り立てる声をドライバーと呼ぶ。主なドライバーが5つあり, それは
1) 早くしろ
2) 完全であれ
3) 一生懸命がんばれ(もっと努力しろ)
4) しっかりしろ(強くあれ)
5) 私を喜ばせろ

ドライバー・チェックリストを行いました。
ドライバーの偏りがある人やドライバーが強すぎる人は、不安などの生きづらさが強いようです。このリストは良いとか悪いという価値評価ではなく、自分はどんなドライバーを自分で知ることができるものです。私がこれまで持っていたドライバーを思い出してみます。

暗闇の不安
私は産まれてすぐに四国のおじの家に預けられた。母が生死をさまよう病気で入院したからです。2年後、母は奇跡的に一命を取り留め退院できました。そして母は父方の叔父の営む駄菓子やの店員として、朝から晩も働き続けました。私の幼児期の思い出は全くありません。小学校の入学式のモノクロの写真があります。ランドセルを背負って俯いている私を囲んで父と兄が笑って写っています。小学生の1年の時は毎日泣いて帰っていたそうです。母は店員をしているから、店主のいない時だけ店に入って母の顔を見ていました。店主がいると、家に帰っていました。母は仕事でほとんど家にはいません。父は夜勤でした。製氷会社で重い氷の塊を運ぶ仕事をしていました。父が家にいる時は寝ている姿だけでした。幼稚園に行くこともなく、昼の間は一人、部屋で過ごしていました。ぼんやり記憶にあるのは、いくら泣いても、誰も来てくれない。長い時間泣き続け、夕暮れの薄暗い部屋で泣き疲れて無力さを感じたことがあります。大人になって、会話に幼い事が話題になりますが、私には全く楽しい記憶がないのです。記憶にあるのは、有名な祈祷師が来るという事で、その祈祷師の前に連れて行かれて、お祈りをしてもらい「この子のどもりは治った」と言われたことです。又、母がお地蔵さんにお百度参りを毎晩していました。何度か「あなたの(どもりが治る)ためよ」と言われ、何度か一緒にお百度参りをしました。私は人とは違う大変不幸なものを持っていると思っていました。3歳くらいだったでしょうか、父に「出て行け」と言われ、本当に出て行きました。夜中に家を追い出され、公園の暗闇の中で、不安を感じながら佇んでいた事が数回ありました。それから【親には反抗してはいけない】=【人を喜ばせろ】というのが私の幼児決断になったようです。それからは目上の人や偉い人の前では緊張を越して怯えていました。その後の私は「大人しくて、素直ないい子」として過ごしていました。

自分の思いを言ってはいけない
家族団らんはほとんどありませんでした。母は夕食を作ると食べてすぐお店に行き、父は会社で兄たちは受験勉強に忙しくしていました。私が学校に入る前だったと思いますが、久しぶりに家族が揃っている時に「てる(私の事を兄たちはこう呼んでいた)は、大きくなったら何になりたい?」と聞かれました。即座に「公園の園丁」と答えると、家族から大笑いされました。「何故、笑われるのか?」と不思議に思いましたが、【自分の思ったことを言ってはいけない】という気持をその時から強く思いました。私の家では、学校を優秀な成績で卒業し、一流の大学を卒業し、一流企業に入って出世するというのが人生脚本でしたから、私が公園で花を育て、木々を植え、憩いの場を作る園丁という私の想いは、笑いの対象で受け入れてもらえるものではなかったのです。

完璧であれ
私が家族の元に戻った時のことです。2歳過ぎていましたから。当然ことばも持っていました。が、すでに吃っていたそうです。父は母に対して「お前の親戚が私をどもりにした」と言って責めたということです。母はその事をいつまでも恨んでいました。母からは、ことばでは吃る事に対して言われた事はほとんどありません。しかし私が吃った時、母の眼差しは悲しげで、母の前では吃ってはいけないことだと直感していました。父や兄たちからは吃ると、怒られ、繰り返しゆっくり言えと言い直しをさせられていました。「ゆっくり話せばどもらない」というのがその当時の常識で、私の為を思ってしていた行動だったようですが、吃ると話は聞いてもらえないし、怒られることで、家で自分の事を話す事はほとんどできなくなりました。さらに、兄に遊んでもらおうと声をかけたり、歌を歌ったりすると兄たちの勉強の邪魔になるからと、家の中では声を出さずに、大人しく一人でゲームを考えて遊んでいました。空想ゲームです。兄たちとは10歳以上年が離れています。私を除く家族は、戦前には満州で生活をしていました。終戦後の引き上げの時に、当時3歳だった私の姉は餓死しています。父は終戦直前に徴兵され、戦場での至近弾で耳の神経が破壊され、捕虜となり旧ソ連に3年間抑留されました。父が帰国して産まれてきたのが私です。長男は父の期待通り小学校と中学校ではいつも学年トップの成績をとり続け、国立大学を卒業しH会社に入社し、退職時には従業員3000人の社長になりました。私が中学3年の2学期の実力テストで600人もいた3年生の中で2番の成績になりました。学校に行くと、担任先生が教室に駆込んで来て「実力試験で1番よ!」ととても喜んでもらいました。後で2番だったと訂正がありましたが、クラスメイトから「おめでとう。すごい」と言われました。褒められた事がほとんど無かっただけに、家に気分よく意気洋々と帰り、父に成績を見せました。当然喜んでくれると思っていました。しかし父は「兄ちゃんはいつも一番だった。」と言うだけでした。それから成績が下がったのは言うまでもありません。【吃ってはいけない】【完璧であれ】というメッセージを持って生きてきました。

人間失格

私に与えられた人生脚本は「兄のようにエリートになれ」という脚本であったと今思います。面接で吃ると就職できないと兄から聞かされて、大学を卒業するまでにどもりを治す事しか考えられませんでした。でも、どんなに頑張っても、兄たちのように一番の成績は取れないし、何年もどもりを治そうと頑張ってきましたが大学の卒業前になってもどもりのままの私には与えられた人生脚本を演じることは不可能だと思わざるをえなくなりました。もう、自分の人生を諦め、大学卒業式の日に卒業式には行かずに、新聞の求人広告を見て、車の運転だったらどもりでもできると短絡的に考えて、運送会社の面接を受けました。どうでもいいと思っていた会社だったから、面接では全く吃りませんでしたし、面接を受けているという意識すらありませんでした。

受け入れてもらった体験

それから2年間友だちも自分から断ち切り、トラックの運転手やタクシーの運転手として働きました。たまたま福岡言友会のことを新聞で見て参加しました。私は価値のない人間と思い込んでいましたが、どもりの仲間たちは暖かく迎えてくれました。どもりの私が認められ生きていける場がそこにありました。

自分で書き直せた「人生脚本」

それから大阪教育大学で言語障害の事が学べると知り、少しずつこれまで持ってきた私のドラーバーからくる禁止令を剥がせる事ができてきました。「過去と他人は変えられないが、自分は変えられる」という交流分析で自分との付き合い方、人との触れ合い方を学びました。子どもの時に私に与えられた人生脚本を捨て、自分で自分の人生脚本を書くことができるようになり、生き方が随分楽になっていきました。

話す楽しさ・生きる喜び

平成20年11月1日から3日間琵琶湖の近くで「吃音ショートコース」がありました。人前で話せなかった私が司会をしていました。交流会では竹内敏晴先生たちと楽しく歌い・笑い・話しました。毎朝散歩に行った琵琶湖の水は透き通り、波は穏やかでした。竹内レッスンは体の気づきから変わります。交流分析は自分の心の気づきからです。森の中のソフィッドという研修の場できれいな空気を吸い、元気をもらってきました。秋風の爽やかさと生きている喜びを感じている自分がいました。

セルフエステェーム

~ 自分を認める・自分に優しくする ~

心という文字に串が刺さって「患:わずらう」と書く。
吃音の私は、学生時代は教室の本読みで吃るとその日一日落ち込んでいた。吃る私は「人間失格」とさえ思い込んでいた。吃りたくない気持で、怯えながら日々を過ごしていた。なんとかどもりを治そうと、今でも『最新の吃音矯正方法』と呼ばれるものを40年以上前に幾多の吃音矯正所で受けたが、吃音は重くなっていくだけだった。そんな事を10年以上続け、吃音が頭から離れた日はなかった。吃ってはいけないと、毎日自分の心に串を刺して、心の傷を広げてきた。自分で自分を許せない。自分いじめをしてきたとも言える。どもりの私は不幸であり、どもりがなくならない限り自分の思ったような人生設計など考えられなかった。どもりたくないために、電話ができないと3年間電話を取らなかった時期がある。どもりに一人で悩んでいた時は、心は荒廃していた。友だちから離れ、運転手として運送会社の寮に住み込み、どもりの為に大学を卒業しても兄たちのようなサラリーマンになれないと、自暴自棄になっていた。吃音のセルフヘルプグループに入り、暖かく迎え入れてもらった。自分で自分を認める事ができるようになった。幼ない時から、家族に吃る度に叱られ、吃る悩みを人に語れなかったが、グループでは自分の思いを聞いてもらえた。どもりは悪いことでないと感じてから、心の串から徐々に解放されていった。今月の吃音教室では「アサーション」を行った。アサーションとは「I am OK、You are OK 」の気持での、生活や表現である。人の言葉に心が傷ついたり、失敗したりすると気持が落ち込む。アサーションでは「人間は失敗してもいい。あなたいい所がたくさんある。」と、人間としての自分を認め、自分の心を癒すことでもある。最悪の日だと思っていても、たくさん良かった事がある。嫌なことに、つい目が行きやすいが、振り返ると失敗だと思っていたことから学べることがある。暖かい人の輪の中で、私は生かされていると、サマーキャンプや日本吃音研究会の研修などに参加すると、生きていける力をもらえている。吃音教室では参加者の方から、多くの「私のいい所」を言ってもらった。自分で思っている私と人から見られている私は違う。「へえ~っ、そう見られているのか」という思いも感じながら自分が認めてもらえていることが再確認できた。セルフエステームのために、私は趣味に没頭しているし、近場の温泉で体を癒したり、映画を観たり、読書をしたり、何よりも健康に留意している。もう自分いじめは止める事ができる。どもりのままに自分らしく生きていけたらと思っている。